それでも一緒にいるのは惚れている証拠

依存症になるとは借金を返すためにギャンブルをするとか、仕事で嫌なことがあつたからギャンブルをするとか、さまざまな理由をつけてギャンブルをしますが、繰り返し触れているように、じつは別の欲望を満たすための行為です。

でも、それは依存症者の妻も同じこと。「どうしようもない博打打ちの亭主と別れないのは、自身の隠された欲望のせいかもしれません。それは金銭欲ですか、世間体ですか、子どものためですか、それがなんなのかを考えてみませんか」というふうに聞きます。

1回で答えが出なければ、「しばらく考えてみてください。次の受診時に、この話の続きをしましょう」と約束してその場は帰ってもらいます。

すると自分自身に正直な妻なら「だって放っとけないもの」といい出します。そのセリフが聞けると、主治医はたいがい「いいですね」と手を打って喜びます。「別れるのはまるで見殺しにするようで、亭主が可哀想なのでしょう? 」と水を向けると、「そうなんです、あんな亭主でも… 」という答えが返ってくるケースが大半です。

兄弟姉妹や成人した子どもたちは「別れたほうがいいよ」「なぜ別れないの」と口々にいいますが、それでも妻は「放っとけない、可哀想だから」というのです。多くの医師は「可哀想ってこたあ、惚れたってことよ」といいます。「結婚して何年? 20 年、30 年たっても惚れているなんて素晴らしいじゃないですか」と言うでしょう。

そもそも惚れていないのなら、病院に連れてくる前にとっくに別れています。自分のことのように悩んでいること自体、惚れている証拠なのです。これを「夫婦の情」といってよいかもしれません。同様に親子のつながりも本質は血縁( DNA) ではなく「情」です。

たとえ、優秀な専門医でも、ギャンブル依存症の病理を完全に理解はできていません。だから妻が夫のギャンブル好きの心情を理解する必要はなく、夫を「惚れているかどうか」「放っとけないかどうか」「情があるかどうか」を基準として身の振り方を考えるべきだと思います。そこに「愛」あるかどうかで判断すればいいでしょう。

 

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*