家族

プライドが高い高齢者の場合

高齢者に多い「人生の意味喪失型」のギャンブル依存症に関しては、家族の言葉はとくに大きな効果を発揮します。

ビジネスパーソンの場合、退職しても本人はバリバリ働けるつもりでいます。仮に59歳までの能力を1 00だとすると、60歳で定年退職するときに能力がいきなり0 になるわけではないのです。いくらでも働けるのに定年退職しただけなので、「まだまだオレはいける」というところをどこかで見せたいと思っています。

第2 の職場、第3 の職場が見つかればよいのでしょうが、そうした職場が見つからなくても、いちばん身近な家族が評価をして言葉で伝えるだけでも本人は救われるのです。

定年退職している人には「家庭内で役割を与えるのがよい」とアドバイスする専門家もいますが、たとえば「お父さん、これからはポチの散歩係をお願い」と頼んでも、なにかバカにされた気持ちになったり拒否感を抱いたりする人もいるでしょう。

「大企業を停年まで勤めたオレにやらせるのか! 」とへソを曲げてしまい、さっさとギャンブルに出かけるようなケースも実際にあります。

ならばと「自治会や地元のボランティアグループに参加する」という手も考えられますが、そこで必ず高い評価が得られるとは限りません。

ギャンブルにのめり込むのは高齢者のなかでも評価や達成感を強く求めているタイプですから、大勢で同じことをやっても期待した評価や達成感を得るのは難しいかもしれません。他人から評価されるような趣味と出会えればラッキーですが、見つからなくても家族の言葉だけで精神的に十分に満たされます。

「お父さん、あのときはありがとう」とか「あのときは嫌なこといってどめんね」と言う言葉をかけるだけで自尊心が満たされてハッピーになり、ギャンブルで欲望を満たす必要がなくなってくるのです。

 

アホらしいと覚めた気持ちにならなければ夫婦でいましよう

互いに気持ちよく離婚できる人たちは、ここまで突き詰めているのかもしれません。離婚したのに、またくっついたり、離れたりを繰り返すのは、お世話欲を十分相手に出し切れていなかったからです。

お世話欲の充足行為を、適切な相手である博打打ちの亭主に対して10 0% やり切っていないうちに、「共依存だから突き放しなさい」というアドバイスに従って途中で放棄したとすると、「お預け」を食らった形になります。

それでは、お世話欲をズルズルといつまでも引きずってしまいます。あるいは別の世辞が必要な相手と同じことを繰り返すかもしれません。

周囲の人たちから「あなたたち、そんなにくっついたり離れたりして、よく飽きないわね。もう勝手にしなさい」と呆れられてしまいます。

これでは、愚痴を聞いてくれる相手さえいなくなります。繰り返しますが、ギャンブル依存症者の矛盾した行動を理解しょうと努力する必要はありません。わからないものは、いくら考えてもわらないのです。

その代わり、自分がその人に関わることでどんな欲望を満たしてもらってきたのか、これからも満たしてもらいたいのかという点に目を向けたはうが建設的なのです。

その結果、バカバカしい、アホらしいと思わなけれぼ、ずっとそのままどちらかが死ぬまで夫婦でいましょう。死ぬまで情が続くのですから、それはそれでよい夫婦。喧嘩ばかりしているとしても、お互いよい相手に巡り会ったと感謝するべきです。

「お世話欲」を適度に満たしながらつき合う

憎悪や怒りが軽減したら、次に「惚れている」「放っとけない」という妻は、自分がお世話欲の非常に強い人だということを自覚すべきです。

依存症本人の妻に「あなたはもしこの博打打ちの亭主と別れても、なにかを過剰に世話して生きていくしかないかもしれない」可能性大です。

両親が亡くなって思わぬ遺産が手に入ったら、ホスト狂いになるかもしれないし、犬や猫を数多く飼う多頭飼いや子どもへの過剰な介入をするかもしれません。

そうなるくらいだったら、長年連れ添ってきた夫でお世話欲を満たしたほうが妻にとっても平和で安全です。

これは共依存であなたがかかわるから、亭主はギャンブルがやめられないというケースもあるのです。「もっと突き放しなさい」といったアドバイスをする専門家医もいますが、突き放すと危ないと言う専門家医もいます。

共依存とは、誰かを献身的に世話することで、世話する相手をコントロールしようとする傾向を強め、結果として互いに依存した関係性から抜け出せなくなってしまう状能心です。

したがって、お世話欲が過剰なタイプに「共依存だから突き放しなさい」と助言しても、結局持て余したお世話欲を隠れてこつそり満たすしかない。そういわれて別れたり、別居したりしても、ギャンブル依存症者にコソコソお金を送ったり、アルコール依存症者の生活の世話をする(元) 妻たちは大勢います。

これはまったく矛盾した話で、矛盾した行動です。「私はもうお世話欲は満たした、もう十分だ」と思ったり、「私はなぜこんな人に怒りや恨みを持っているのだろう」とアホらしくなったりすれば、そこで情が尽きるかもしれません。

お世話飲も恨みも源泉は「情」。情が尽きたら終わりですから、そのときになってから感謝とともにサヨナラすればよいです。