飲み始めると止まらなくなってしまう

飲みはじめるとどうしてやめられなくなるのかを考えるときに、実験中央動物研究所の柳田氏が行ったアカゲザルの実験が非常に理解しやすいと言えるでしょう

医学の研究のなかに、ヒトの病気と似た精神病様状態を動物におこさせる実験精神病理学の領域があります。たとえばサルがせっせと麻薬を自分の腕に注射する状態をつくれば、「麻薬中毒ザル」ができたことになります。
麻薬のかわりにアルコールを使用すれば、とうぜんアルコール依存症または、アルコール依存症のサルができます。

ところで、サルがいくら人真似に長けていても、静脈注射までは不可能です。そこで、あらかじめサルの静脈内に細いビニール管(カテーテル)を固定して、それを皮膚に縫いこんでおきます。
そのカテーテルの端をサルに背負わせたランドセル内の自動注入装置に結びつけます。パイロットランプがついているあいだにサルがオリのなかのレベーを何回か押すと、その信号がランドセル内の自動注入装置に送られて、なかから1回分のアルコールがサルの静脈内に注入されるというしくみになっています。

こうした装置によってサルにアルコールの酩酊感を学習させると、4週間後には、サルはやっきになってレバーを押しつづけるようになり、こうして、アル中のサルのできあがりです。

このような依存成立のメカニズムについては、J・オルズの動物実験があります。オルズ氏によると、脳の視床下部、正中前脳束の投射領域には「快楽中枢」があるそうです。

ネズミの快楽中枢に埋めこみ式電極をセットし、オリのレバーを押すと電流が流れる装置をつくると、ネズミは夢中になってレバーを押し続け、快楽中枢に電気刺激をあたえるようになるそうです。

オルズ氏の主張する快楽中枢の場所とは、ノルアドレナリンによって作用のおこる領域です。覚せい剤の効果もノルアドレナリンの動員作用ですから、オルズ氏の見解も否定できません。

オルズ氏の実験は薬物依存の本質にせまる興味深い研究でしたが、彼が亡くなってしまったので、快楽中枢説の評価はうやむやになってしまいました。

柳田氏のアル中のサルの実験も、脳のなかにどこか飲酒の快楽中枢があって、サルはアルコールの注入によってその快楽中枢を刺激しっづけているとも考えることができるでしょう。
柳田氏がアルコール依存症のサルをつくるのには4週間を要しましたが、もっと体重の軽いネズミなどの小動物は、かんたんにアルコール依存症になります。
たとえば、ネズミに大量のアルコールをあたえつづける「急速飽和実験」を行うと、わずか数日で、アルコールを断つといわゆる禁断症状をおこす「アルコール依存症」になってしまいます。つまり、朝から酒を飲みっばなしで、四六時中アルコールが切れないような飲みかたが、アルコール依存症になる近道なのです。

酒飲みがアルコール依存症に変わってしまうのは

問題飲酒とは、要するに自分で自分の飲酒をコントロールできなくなっている状態です。アルコール依存症やアルコール依存症などの区別や定義はありますが、たんなる大酒飲みだった人がアルコール依存症やアルコール依存症にかかわる境目は、飲みだしたらとまらない「連続飲酒発作」にあります。

この「連続飲酒発作」こそアルコール依存症の本質なのです。では、どうしてこんな状態がおこるのでしょうか。「わかってはいるけれどやめられない」とよく言います。

「明日の仕事にひびくから、もうこれで切りあげよう」と思うのに、ついもう一軒とハシゴをしてしまう心理これは酩酊によって意志の中枢(大脳の新皮質)がまっさきに麻酔してしまうので、もう一杯飲みたいという欲求にブレーキが効かなくなる状態なのです。

したがって、まだブレーキが効く量でキッパリ切りあげる習慣さえまもれば、アルコール依存症にはならないことになります。

ところが、「つい悪友に無理強いされて」「会社でおもしろくないことが重なって」、あるいは「祝い酒の度がすぎて」など、肝臓の解毒能力をこえた飲みすぎをつづけているうちに、泥酔から覚めてもまた飲みなおし、数日間飲みつづけるという「連続飲酒発作」がおこってきます。

こうした状態になると、当然会社も休んで、食事もとらず、カーテンを閉めた部屋で、嘔吐して胃が酒をうけつけなくなるまで飲みつづけることになります。

あとで本人に聞くと、飲んでも苦しくなるばかりなのに、病院にかつぎこまれるまで飲みつづけずにはいられなかったと口を揃えます。

酔って人が変わるように変化するケース

泥酔してやたらにからんだり、人がかわったようならんぼうな口をきく人のことを、俗に「トラになった」といいます。これは、知性の座である大脳新皮質のブレーキがアルコールで麻酔されて、その人が本能の座である旧皮質の欲求・攻撃行動に支配されるままの「野獣」と化した状態になるからで、「トラ」というのはいいえて妙です。

この手の人は、翌朝、都合の悪いことになると「覚えていない」といいはりますが、実際には、とぎれとぎれの記憶のあることが多いのです。
しかし、本人にまったく記憶のない「ブラック・アウト」といわれる状態がひんばんにおこるようになったら、危険信号です。

通りがかりに店の看板をもってきてしまい、あとで謝りにいくうちはご愛敬ですみます。しかし、この時期に人がかわったように狂暴になって、ふだんでは考えれないような傷害や強姦、あるいは殺人事件をひきおこして、精神鑑定にまわされるケースもあるからです。

1950年代後半、泥酔のうえで日ごろ仲の悪かった同僚を殺し、死体を勤務先の化学工場の大きな硫酸槽に投げこんで溶かしてしまった事件があり、その精神鑑定をもちこまれたことがあります。

彼は、こんな手のこんだ隠蔽工作をしながら、事件の記憶がまったくないといいはっていました。鑑定人が「再現実験」が大学病院の一室で行われました。再現実験とは、事件当日とおなじ酒量を飲ませ、精神状態になるのかじっさいに観察することです。

素面の彼は、一流会社のエリートらしくいんぎんな物腰の紳士で、「教授にお酌していただいて、昼間からお酒をいただくなど申しわけありませんね」と恐縮しながら盃を重ねていました。しかし、このようにバカていねいな、つまり過度に礼儀正しい人は、じつは内面の強い攻撃性をかくすために自分を偽っていることが多いのです。
つまり、精神分析でいう「反動形成」を行っているから要注意です。

はたせるかな、4合近く飲んだころから、「ああ、監視つきで飲むなんて、うまくもなんともないや」とチラッと本音がでて、こちらをギクリとさせました。その直後、突然「ウォー」と猛獣のように抱えたかと思うと、あいだにあったテーブルを飛びこえていきなり鑑定人につかみかかりました。

小柄な鑑定人はヒラリと身をかわすと、いちもくさんに部屋から逃げだし、とり残された鑑定助手の悲鳴で数人の教室助手がかけつけ、荒れくるうこの人をやっとのことでとりおさえました。

病的酩酊というのは、このケースのように、ある瞬間からまったく人がかわったよぅな狂暴な状態となるものです。しかもそのあいだの記憶は完全になくなっています。

ドイツの犯罪精神医学者は病的酩酊を飲酒によって誘発されたてんかん性「もうろう状態」だと考えています。

ふつうの単純酩酊(いわゆる酔っぱらい)では、酔って意識水準が低下するのとあわせて、運動神経の麻痺もすすんでいます。
舌はもつれ、千鳥足となり、やがて座りこんで寝てしまいます。しかし、病的酩酊では、意識の混濁はひどいのに、運動麻痔がおこるどころか、かえって敏捷になるケースさえあるのです。だからやっかいです。

もうひとつ例をあげてみましょう。もとトラックの運転手。酒がはいると動作がかえって敏捷になり、まず家族が逃げだせないようにマンションのドアをチェーンでロックします。
つぎに110番へ通報されないよう電話線を切断し、家族の悲鳴が聞こえないようにテレビのボリュームをいっぱいに上げるという準備をととのえます。

それから、恐怖におびえる妻子をすわった目でなめまわし、集めた刃物類をひねくりまわすという、聞くだけで恐ろしいケースがありました。包丁をとり上げようとして、妻が手のひらに大けがをし、外来に抗酒剤をもらいにあらわれたこともあります。

しかし、こんなものすごい事例はそうあるものではありません。一般的な事例では、自宅に帰るつもりが、なんと反対方向の電車に乗ってしまい、さらにバスに乗ってある停留所でおりたそうです。まだ自動販売機のない時代でした。タバコが吸いたくなったのか、彼は閉まっているタバコ店のガラス戸をたたき破り、びっくりしてでてきた店主の首をいきなりしめて警察に保護されたのです。

ハシゴした3軒目からの記憶はまったくありませんでした。まだ当時はこの種の酒の上の武勇伝に警察が寛容な時代でした。
店の主人が「なにもおぼえていないというのだから、許してあげてください。店のほうはガラス代さえ弁償してもらえばいうことはありませんから」と口をそえてくれたので、以後、アルコール外来に通うことを条件にこの事件は始末書ですみました。

しかし、最近は身柄を拘置されて、器物破損、傷害罪で起訴される場合もあるのですから、病的酷酎の傾向のある人は注意しなければなりません。

こういう人はあんがい身近にいるものです。酒癖が悪いと評判の同僚や部下がいたら、まわりの人は彼の酩酊時の武勇伝をよく調査して、宴会ではあまり飲ませないようにしてください。

万一、酩酊してきたら、屈強な若手を2~3人もつけて自宅まで送りとどける配慮が必要でしょう。ともかく、異常酩酊の傾向のある人が、顔面蒼白となり、目がすわり、ふだんとはちがう大声をだしてからみはじめたら、さっそく適切な処置をほどこす必要があります。事件をおこしてからでは、あとの祭りなのです。